4年に一度のスポーツの祭典、パラリンピックが9月に行われた。
僕は日本代表のアシスタントコーチとしてロンドンで行われたその大会に出場した。

あまりにも多くの思いや思い出が詰まっている。

正直、なんて書いていいか・・・

 

なので、何度かに分けてコラムを書くことにした。

 

(ロンドンパラリンピックに向けて)

僕は2年前の2010年の世界選手権の後、日本代表のアシスタントコーチに就任した。
その頃、世界の車椅子バスケットボールは超エリートスポーツに大きく舵を切っている中で、日本は世界選手権10位と過去最悪の結果を残した。

 

ヨーロッパのクラブチームは、世界のトップ選手とプロ契約を結び、チームの強化を図った。
ヨーロッパには、クラブチームのチャンピオンシップ大会がある。
プレミアリーグやセリアAなどがあって、UEFAチャンピオンシップがあるサッカーの仕組みと同じような形だ。
僕が代表チームに就任したこの2年間にも、ヨーロッパのチームから日本代表選手にプロ契約のオファーが幾度となくあった。

 

トルコのガラタサライというチームはまだ新しいチームだが、高額の契約で世界のまさにトップ選手たちと契約し、このヨーロッパクラブチャンピオンシップ大会を数回制するまでになった。
その結果ともいうべきか、トルコはロンドンでパラリンピックに初出場、予選リーグ初戦、アメリカを実力で破った。

 

このように、世界のトップ選手の力を借りて、ヨーロッパ全土が車椅子バスケの発展に取り組んでいた。

 

北京パラリンピックで金メダルを獲得したオーストラリアは、積極的に代表選手を世界に送りだし(プロ契約)、経験を積ませた。
また4年間で300の国際試合を計画し、2連覇に向けて準備を進めていた。

世界各国が独自に「世界という舞台」を使って強化を図っていく。

車椅子バスケットボールの世界がめまぐるしく発展していく!
そんな中でのスタートだった。

 

僕が最初に出場したのは2010年12月に中国の広州で開催されたアジア大会。
超満員で「ジャーヨー!(加油:がんばれの意)」という大歓声の中、予選リーグ初戦が中国だった。
日本は堅苦しさからか、終始リズムが取れず、僅差で敗れた。
アジアNo.1をずっと継続してきた日本。
その牙城が崩されていく恐怖を感じた。
中国全土から選手が一か所に集められ、ひたすらこの日のために国策で強化を図ってきた中国。
発展のスピードが違った。

中国には負けたものの予選を2位通過し、決勝で中国と再戦、リベンジを果たし、アジアNo.1の称号は何とか守った。

ここから世界の上位へ向けて、待ったなしの挑戦!
と思った矢先、

3.11の東日本大震災。

 

日本代表の選手、スタッフの半分以上がこの震災の直撃を食らった。
直後の何日かは、暇さえあれば安否確認のメールを流し、仙台、福島の選手やスタッフの安全を願った。
代表チームの中核を担っていた宮城MAXの練習体育館は被害にあい、長期使用不可になった。
福島の原発で勤務していた選手は、世間からの多くのプレッシャーを感じながら自分の将来に迷った。

ヘッドコーチは自宅が津波で流されたにも関わらず、人命救助、町の復興、想像を絶するほど多くのことに貢献していた。
アシスタントコーチとして、隣にいた僕は本当に多くの信じられない出来事を聞いた。

その中で、バスケットを続けた。

しかし、日本のタイムアウトの間、世界の車椅子バスケットボールの流れは、それとは関係なく発展を進めていった。

 

その年の11月にはロンドンパラリンピックの出場権をかけて、アジア・オセアニア予選が韓国で開催された。
ライバルである韓国は、この予選を主催し、アトランタパラリンピックで金メダルを獲得したときのオーストラリアのコーチをヘッドコーチに迎え、虎視眈眈と準備を進めていた。
オーストラリアが1位通過を決め、残りの1枠をかけて挑んだ韓国戦。
終始シーソーゲームの中、最後の最後まで試合はもつれた。

1点差、日本のリードで第4Qの残り0.3秒。

日本チームのファールが吹かれ、韓国エースのフリースローになった。
僕らのできることはもうない。祈るだけ。

韓国は1988年の地元ソウルパラリンピック以来、24年ぶりのパラリンピック出場に向けて。
日本は、長年引き継いできたアジア?1、パラリンピックの出場をかけて。

歴史をかけた勝負だった。

僕はベンチで座りながら、コートサイドで立っているヘッドコーチの後ろ姿を見ていた。

「これ以上、悪いことは起こらない。起こっては絶対にいけない!」
そう心から強く思っていた。

 

フリースローは2本とも外れた。

土俵際、なんとか生き残った。

バスケットボール人生で初めて、涙がこみあげてきた。

でもまだ出場権を獲得しただけ。
相手はその上にいっぱいいる。

 

2012年のパラリンピックイヤーに入り、日本代表は多くの国際大会に参加しながら、ロンドンの準備を進めていった。
ヨーロッパ遠征では僅差に迫るも、ことごとく負けていく連続だった。

「負けながら、強くなる」。

我々の取る方法はそれしかなかった。
負けから見えてくる課題を一つ一つつぶしていった。
選手たちは、できないことだらけの中、自分たちの弱さを見つめ、一歩一歩前進していった。
そして少しづつ強くなっていった。

欧米のやり方を真似しているだけでは、欧米には勝てない。

日本の強さとは何か?
それを真剣に考える必要があった。

そして出来上がったテーマが、
「緻密さ」と「和」

対戦相手を細かく分析し、緻密な戦略を立て、和をもって実行していくこと
うまくいかないときこそ、この和の力を思う存分使うこと。
選手たちは自らこのテーマのもと実践していった。

本当に、日本最高のチームができあがった。

 

そして、ロンドン!

(つづく)


 
 
ーーーーー 及川晋平氏プロフィール ーーーーー
1971年生まれ。千葉県出身。16歳のとき骨肉腫になりローテーションの手術をする。持ち点4.5。22歳のときに強豪千葉ホークスで車椅子バスケを始め、2年後に渡米。 NBAシアトルスーパーソニックスが傘下に持つ車椅子バスケチーム、94年全米優勝 チームFRESNOなどいくつかのチームを渡り歩き、現在東京都にあるNO EXCUSEでプレ イする。1998年シドニー世界選手権、2000年シドニーパラリンピック、2002年北九州世界選手権の日本代表選手。また、1年に一度海外のコーチを招待して行う車椅子バスケットボールキャンプ(JCamp)のトータルコーディネーターも務める。